K君へ・・人はみんな同じではないよこの数日、ある少年が気にかかっている。人間関係づくりが苦手というか不器用で、繊細で傷つきやすく、 いつも他人を気にしすぎながら日々を送っている。 本当の友達や自分を理解してくれる人を強烈に求めすぎて、 誰も自分の苦しさををわかってはくれないという思いに囚われている。 「助けて!」と叫ばれても、 周囲の人達は何をどう助けて良いのかわからず戸惑ってしまう。 彼自身が、どうしてそれほど苦しいのかわかってはいないし、 どのように助けて欲しいのかわからないのだから当然でもある。 そして彼は叫ぶ。 「結局、誰も本気で他人のことなど心配なんかしないんだ。 大人は優しそうな顔をしていても、助けてはくれない。 大人はずるい。大人はみんな同じだ!」と。 それは、思春期にきっと多くの人が大なり小なり味わう感情だと思う。 その時期を通ってきた記憶を持つ私には、彼の気持ちも多少はわかる。 そして、 「こんな感情に囚われる自分は特別だ(あるいは変だ)」と感じているであろうとも。 それは、自己と他者を考え始めた少年には当然訪れる感情ではあるが、 決して自分以外の誰とも同じではない。 持って生まれた気質や育った環境、それまでに出会った人々や体験はみんな違う。 その違いの分だけ、感じ方も考え方もみんな違う。 他者と違う部分を強く意識し、自分のダメで弱くて醜い部分を嫌悪し、 周囲の大人の中にもそれを感じて絶望し、 生きてゆく希望も価値も見出せないどん底に落ちて、 それでも毎日生きていることを知り・・。 その繰り返しの中で自分の内部から湧き上がるものによってしか、 自分を救うことはできないと私は思っている。 私は、泥沼の中に這いずり回る少年に、 溺れないようにとロープを投げることはできても、 沼に自ら助けには行けない。 だって、彼にとっては泥沼であっても今の私にとっては水たまりであり、 「ほら、何ともないよ」と言ったところで、 彼には泥沼なのだから「わかっていない」と思われるだけだもの。 自分でもがいて自分で脱出するしかないのだよ。 私たちはその姿にエールを送ることはするし、 具体的に彼がしてほしいことを示したなら、 可能な範囲で協力はできるけれど、それ以上は大人でも無理なのだよ。 大人だって人それぞれだから、 出来る事と出来ないことはみんな違うんだよ。 そんなことを思いつつ、今の私は彼に少し距離を置いて見守っている。 私が彼に伝えたのは、「とにかく今日を生きてね」ということだ。 私はその泥沼の絶望に見切りをつけて、 この世から去る人達が多いことも知っている。 だから、自死する人を責める気にはなれない。 それがその人の限界だったのだから、 「辛かっただろう。残念だ」と思うしかない。 誰もが必ず死ぬのだから、 自死もその一つとさえ思う(ただ、他者を道連れにするのは許せない)。 だけど、少なくとも思春期の泥沼は、 生きてさえいたら通過点となるし人生の糧にもなる。 だから、生きていて欲しいと祈る。 発作的に死んで欲しくないのだ。 その少年は死なないとは思うが、 人は自分で自分がコントロールできなくなる時もあるし、 思春期にはその傾向も強いからそれだけが心配なのだ。 人は同じではない。 この世に「私」はただ一人であり、 それだからこそ毎日が発見と感動の連続にもなる。 だけど、「私はただ一人」ということは、 決して全面的に誰かと思いを一致させることはないという 孤独と背中合わせなのだ。 人は一人で生まれて一人で死ぬのが原則だけど、 だからこそ少しでも共感できたり協力し合える人と出会った喜びは格別だし、 そのような人達と支えあうぬくもりこそが 人として生きるということではないかと思っている。 こんなことを言ったとしても、今の彼には「きれいごと」だろう。 私自身、はるか昔にはそう思っていたのだから。 いつか君と、このようなことを語り合える日が来ることを祈りつつ、 かつ信じています。 (2003年12月11日) ジャンル別一覧
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